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これは「やらせ」なのか?再考(ユージン・スミス編)


 ニューヨークタイムズ紙の写真ブログ「LENS」は、日々のニュース写真を紹介する以外にも、写真にまつわる様々なトピックスを紹介していて非常に面白いのだが、最近、写真家ユージン・スミス(1918-1978)の新しく発見されたというインタビューが掲載されたのでご紹介したい。

▶ W. Eugene Smith: ‘I Didn’t Write the Rules, Why Should I Follow Them?’ (“Lens” Jan.3, 2013, The New York Times)

 ユージン・スミスは著名なフォトジャーナリストだが、名作と言われる数々の写真を「演出(staged)」して撮ったと言われていて、「写真はいいけどやらせでしょ」というように、ときには条件付きで評価されたりしているのである。

 「やらせ」については以前にも書いたので、こちらも合わせて参考にされたい。

これは「やらせ」なのか

 このインタビューは、1956年にニューヨークで行われたもので、出版されることなく眠っていたらしい。インタビューを行ったのはこちらも写真家のフィリップ・ハルスマン。(※この人は人をジャンプさせて写真を撮ることで有名。オードリー・ヘップバーンも、ダリも彼のカメラの前でジャンプした)

 さて、ハルスマン氏、みんなが気にしているけど、巨匠ユージン・スミスには誰も真っ向から聞けなかったこの「演出」に関する話題を、全く無遠慮に質問している。

話題になっているのは、スミスの有名な作品「スペインの村」の中の、さらにその中でも有名な”Wake(通夜)”という写真。死んだ老人の周りに女性たちが集まっている。あまりにも完璧なサイドライトは一幅の絵画のようである。

インタビューはその他の話題にも及んでいるのだが、この「演出」に関する部分を抄訳してみた。

 Hallsman:タイム・ライフのスペイン特派員だったサポリティ氏は、あなたが石油ランプを使っていたと言ってます。

 Smith:すばらしい記憶力の持ち主だね。何て豊かな想像力だろう!そこにあった光を使っただけだ。それと、ロウソクの光があった位置からフラッシュを1つ焚いた。

 H:人々は深く悲しんでいます。そこであなたはフラッシュを焚いてその悲しみをかき乱した。これは迷惑ではないですか?

 S:私が前日に病気にならなかったら、この写真は撮れなかっただろうね。村でひどい腹痛になってしまい、そのときに見知らぬ人が現れてワインを勧めてくれた。欲しくなかったのだが、せっかくの申し出を断るのも悪いのでいただいた。そして次の日、偶然にも彼が突然やって来て、言った。

「父が亡くなったのです。彼を埋葬しなくてはいけません。みんなが書類を作る場所まで私を連れて行ってくれませんか?」

 そして家に行った。そこで通夜の悲しみと慈悲に満ちた美しさにすっかりやられてしまったんだ。彼がドアのそばにやってきた時、近づいて行って言ったんだ。

 「すみません、無礼をするつもりはありませんが、写真を撮ってもいいでしょうか?」

そして光栄にも撮影を許されたんだ。

 写真のための写真、というのは正当化できるものではない。目的をよく考えるべきだ。

そして、これも「スペインの村」にある写真、女性が道路に水をまいている写真について「あれは演出ですか?」と聞く。

 S: 水をまいてくれ、と言うのに躊躇はなかったろうね。(ある場面において、演出が物事の本質を変えずに、それを強調する限りにおいては、演出には反対しない)

 H:カルティエブレッソン(※筆者注:フランスの写真家。演出無しで日常の風景を捕らえた写真”candid photo”>で有名)は演出しないですよね。なぜあなたは非演出写真の基本的なルールを破るのですか?

 S:私がルールを作った訳じゃないよ。どうしてそんなルールに従わなくちゃいけないの?

今自分が撮影していることについては、とても長い時間をかけてリサーチしているんだからね。私が正しいと思えば、被写体に依頼もするし、アレンジもする。写真家である私が、誠実に理解しようとしているのだからね。

 な〜るほど。

 今日のフォトジャーナリズムの世界ではどんな演出であれタブー視されているので、このように真っ向から演出の正当性を言う写真家はまずいないだろう。

 インタビューがなされた1956年にしても、やはり演出の是非は話題になっていたからこそこのような質問になったのだろうが、ユージン・スミスも、はっきりと「演出した」とは言わないで、微妙に質問をずらしているとも言えなくない。拙訳がうまくないせいもあるが、日本語にしても難解なのだが、英語もけっこう晦渋だ。興味がある方はぜひ原文に当たられたい。

 しかし、彼が言っている写真家の「誠実さ(Honesty)」という点については同感する。すべてのジャーナリストに言えることだと思うが、最終的に問題となるのは事実に対して誠実かどうか、ということだろう。

また、彼は別のところでこうも言っている。

 The majority of photographic stories require a certain amount of setting up, rearranging and stage direction, to bring pictorial and editorial coherency to the pictures. Here, the photojournalist can be his most completely creative self.

Whenever this is done for the purpose of a better translation of the spirit of the actuality, then it is completely ethical. If the changes become a perversion of the actuality for the sole purpose of making a “more dramatic” or “saleable” picture, the photographer has indulged in “artistic license” that should not be. This is a very common type of distortion. If the photographer has distorted for some unethical reasons, it obviously becomes a matter of the utmost gravity.–Eugene Smith, Photo Notes, (June 1948)

 フォトストーリーはその大部分において、写真に視覚的な、編集上の統一性をもたらすため、物事を再現したり演出したりというある程度のセットアップが要求される。これこそがフォトジャーナリストの創造性が最も発揮される部分である。それが現実のよりよい解釈のためになされるものである限り、これは道義的には全く問題がない。もし、「よりドラマチックな」、「売れそうな」写真を作るための演出になってしまうと、それは現実とは乖離した「写真のための写真」になる。それはやってはならないことであるが、この種の演出がとても多い。もし、演出が非道徳的理由からなされたとしたら、それが大問題になることは明白である。(拙訳)

 彼の言っていることはよくわかる。現実の「解釈」は写真家に委ねられているのだ。撮影者の何らかの解釈が介在しない写真など有り得ない。その解釈に写真家のエゴが介入した場合、彼は厳しくそれを批判する。撮影者のエゴを排して事実に忠実であること、これが彼に取っての「誠実さ」だったのではなかろうか。


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