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モエレ沼とイサム・ノグチの想い

Moerenuma Park and Isamu Noguchi's Aspirations

(※初出:以下の記事は2005年6月 札幌市観光サイト「ようこそさっぽろ」に掲載されたものです)

初夏のモエレ沼公園

 モエレ沼公園が計画された当時、札幌市緑化推進部造園課環状緑地係長として公園建設に関わり、現在モエレ沼公園園長の山本仁さんに、公園が計画された当時の様子を聞きました。(※肩書きは2005年当時 文中敬称略)

 1988年3月30日、まだゴミ捨て場だったモエレ沼を、彫刻家イサム・ノグチが訪れた。

 ノグチは、日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれ、レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を受章するなど彫刻家として世界的名声を得ていた。


 冬の終わりの暖かい日の午後だった。当時、ゴミ埋立地だったモエレ沼公園はまだ半分程度しか覆土されておらず、残りの半分にはまだゴミが運びこまれていた。

 現在のガラスのピラミッドがあるあたりに、一行の車が着いた。車から降りようとした彼は、着ていたジャンパーのボタンがなかなかとまらずあせっているようだった。山本にはその様子が、彼が早く車から降りたくて興奮しているように見えた。おじいちゃん子だったという山本にとってノグチの第一印象は、「亡くなったおじいちゃんに会ったようだった」という。
 

 ノグチは当時83歳。残雪のある砂利道を、用意された長靴を履いて、その年齢を感じさせないほどの速さでどんどんと歩きだした。後をついていくのが大変だった。

 

 当時、札幌市は、芸術文化的事業に力を入れており、市からの働きかけに応えて現地を視察するための訪問であった。市が用意したは候補地は、南区の札幌芸術の森、そこに隣接する現在の市立高等専門学校、そしてモエレだった。市が思い描いていた本命は芸術の森だったが、イサム・ノグチが唯一関心を示したのはモエレだった。

山へ登る階段

 事前に市が提出した公園の計画図面をノグチは見ていた。公園の中央付近に、自然の川の流れを模したような小川の計画があった。その個所を指し、「自然の中で自然のまねごとをしてもだめですね」と、ノグチは言った。長年公園作りに関わっていた山本にとって、自然に近いような空間を作り出すのが造園だと思っていた自分の感覚とはずいぶん違うな、と感じたという。

「気に入った」とはっきりは言わなかったが、言葉や態度の端々からノグチがこの場所に寄せる関心がただならぬものであることを感じていた。また、ノグチがモエレの現地で「ここはぼくの仕事です」とも言ったことを憶えている。

 

 モエレ沼公園はすでに一部施設の造成も始まっていた。テニスコートなどの運動施設を作ること、サクラの木を植えることなどは設計に盛り込まれ、周囲を取り巻く沼はは国の管理で何かするには許可がいることなども説明した。ノグチは、「それはアメリカでも同じですよ」と言って理解を示した。

 市のグリーンベルト構想を説明したとき、ノグチはその趣旨に賛同し、やりがいを感じてくれたと、山本は感じた。ゴミの埋立地であるだけに地形を自由にできる空間であることが魅力的だったのかもしれない、とも思う。その後のノグチの行動は早く、5月にはすでに公園の模型をもって再び来札しているほどだ。ぜひやりたい、というノグチの気持ちもぶれることがあった。山本はそれを何度か体験することになる。

 

 ノグチは当時、ニューヨークの住居、イタリア北部のピエトラサンタのアトリエ、香川県牟礼(むれ)町にある日本のアトリエを中心に世界中をめまぐるしく飛び回る毎日だった。ピエトラサンタと牟礼は、ともに石の産地として名高い。

山の斜面、緑の芝生と人、空

 東京や札幌での宿泊先に、山本は市の担当者として何回か呼ばれた。モエレで見せた興奮とは打って変わって、消極的になっていることもあった。アメリカでも経験してきたことだが、行政と仕事をする難しさを親しい人に忠告されたのも原因であるようだった。気持ちが揺れているのが見て取れた。

 すっかり自信をなくした様子のノグチに、山本はこれから植えようとしている木の写真などを見せながら、将来のことを話したりしていた。ノグチの気持ちがほぐれて山本が帰路に着くのは深夜におよぶこともあったという。

 東京や香川、札幌で会合を重ね、11月16日、結果的に最後となった計画の打ち合わせで山本は、牟礼に滞在するノグチを訪ねていた。


 翌日、ノグチは84歳の誕生日を牟礼のアトリエで仲間たちと祝った。山本もそのパーティーに同席していた。当時の映像を見ると、ノグチはお祝いのケーキに立てられてロウソクをながめながら、穏やかな笑みをたたえている。

 翌18日、山本が札幌に帰る日の朝、もう一度会おう、とノグチから声がかかる。牟礼のアトリエで、彼が住居としていた「イサム家」に出向いた。丸亀市にあった豪商の古い屋敷を移設し、ところどころに自らの彫刻を配し、瀟洒(しょうしゃ)な庭を持つ日本風の家だ。

コーヒーとバターつきトーストの朝食を山本にすすめながら、ノグチはモエレで計画していた「プレイマウンテン」の構想を語った。これまでの計画にはなかった考えもそこにはあった。常に新しいことを考えている彼のエネルギーを山本は実感した。

 一時間ほど話し、飛行機の時間があるからとその場を辞そうとする山本に、「今度の雪まつりのときに札幌に行くよ」とノグチは言った。
「ぜひに」、と握手をして別れた。それが彼と言葉を交わした最後となった。

山の斜面の石段と人

  牟礼からニューヨークに戻ったノグチは、風邪から肺炎になり、約1カ月半後の12月30日にその生涯を終えた。

 雪まつりに来ていたら、「雪像を作りたい」と彼は言ったかもしれないな、と山本は思う。
 思えば、この最終打ち合わせの最中に、モエレ沼公園と大通公園のマントラの完成した模型を見せながら、「これで私がいなくなってもできますよ」と、ノグチが笑いながら言っていたことがあった。その年齢からして、自分の存命中に完成できない計画であることは覚悟のことだったのであろうか。

(初出:「ようこそさっぽろ」2005年6月 文・写真:吉村卓也 )

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