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イサム・ノグチと札幌 |  楽園への階段 札幌で出会える作品たち

Stairs to the Paradise  |  Meet Isamu Noguchi in Sapporo

(※初出:以下の記事はイサム・ノグチ生誕100年の2004年、札幌市観光サイト「ようこそさっぽろ」に同年6月に掲載されたものです。

上から見たブラックスライドマントラ

大通公園にある「ブラック・スライド・マントラ」。すべり台としても使われる。雪のないときは、子供たちのお尻で磨かれている。

 札幌の中心部の東西に貫く大通公園は、丁目ごとに南北に走る道路で区切られている。ただ一ヶ所、西8丁目と西9丁目の間だけ、南北に走る道路は公園によって遮断され、空間が広くなっている。
 その中心に置かれているのが、彫刻家イサム・ノグチの「ブラック・スライド・マントラ」だ。彫刻作品そのものがすべり台にもなっている。
 南北の通りを断絶させてでも、子どもが思う存分遊べる空間を作りたいというのは、イサムの主張だった。
 他の遊具や砂場もあり、今、大通公園のこの一角は子どもの楽園のようでもある。
 天気のよい日に公園を訪れれば、子どもたちがこの彫刻作品に駆け上がり、何度も何度も、歓声を上げながらすべり降りる光景に出会うだろう。

ブラックスライドマントラのすべり台への登り口

ブラック・スライド・マントラの裏側に登り口がある。頭をかがめて丸い入り口を入る。光の国へ続く階段のようだ。この作品の原型は、ノグチが1986年にヴェネツィア・ビエンナーレに出品した白大理石のスライド・マントラだ。ノグチはそれを札幌に作るにあたり、北国の雪にも映えるよう黒御影石とし、大きさも一回り大きくした。

 1904(明治37)年、詩人だった日本人の父とアメリカ人の母との間に、私生児としてイサムは生まれた。少年時代を日本で、青年時代をアメリカで過ごし、制作活動に入ってからは、居を一ヶ所に定めることはなく、アメリカ、日本、ヨーロッパを行き来しながら多様な作品を残した。

 「子ども心を失った者は、もはやアーティストではない」、「役に立つものを作りたい」とかつてノグチは言ったという。
 当時、日米の混血というノグチの出自は、疎外され、同世代の子どもとも思い切り遊ぶこともできないという状況を彼にもたらした。
 だからであろうか、彼は「遊び場」を作るのに生涯こだわり、さらに、多くの人が見捨てたものに対しては常に手を差し伸べようとした。
 自分の所属する場所を持てなかったノグチは、どこかに楽園を作りたかったのであろうか。

建設中のモエレ山(2004年5月)と、完成したモエレ山(2005年5月)タブをスライドさせてご覧ください。

モエレ沼のプレイマウンテン

モエレ沼公園の「プレイマウンテン」。訪れる人は、みなその頂上に立ちたがる。

 ノグチが札幌に残したもうひとつの足跡に、「モエレ沼公園」がある。 かつてゴミ堆積場だった土地を公園にする計画が持ち上がり、ノグチは「これはぼくの仕事です」と、積極的にこの仕事を引き受けた。
 モエレ沼には、ノグチの長年あたためていた構想である「プレイマウンテン」(遊び山)が実現されている。その頂上に到る階段には、晩年、制作場所を構えた四国から運んだ石が敷かれている。
 公園だけで総面積100ヘクタールになるこの壮大なプロジェクトのマスタープランをノグチが作ったのは1988年。その年末、彼はニューヨークで84歳の生涯を閉じた。設計者を失った公園は、作者の意図の謎の部分を引継ぎながら、2005年3月にすべてが完成する予定だ。

 ブラック・スライド・マントラは彼の死後、1992年に大通公園に設置された。

 

 彼の最後の二つの作品に、札幌で出会うことができる。

 スライド・マントラについて、「この作品は子どもたちのお尻で仕上げられる」とノグチは語っていた。その言葉どおり、 高さ3.6メートル、重さ80トンの黒御影石は、磨かれ、触れられ、生誕100年を迎えた2004年、日々その深い輝きを増しているように思える。


(初出 2004年7月1日「ようこそさっぽろ」 写真・文:吉村卓也)

 

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