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三島木工 三島俊樹さん | 受け継ぐ家具職人の技 

(※初出:この記事は札幌市のウェブサイト、「ウェブシティさっぽろ」内、「さっぽろの横顔」に2005年11月30日に掲載されたものです)

工房で椅子の台座を直す三島俊樹さん

クギをひとつかみ口にほおばり、一本ずつ出しながら素早く打ち付けていく。

 作業場のサッシ戸を開けて足を踏み入れると、心地よい木の香りが鼻孔をくすぐる。無造作に置かれているいろいろな木は、乾燥のためにもう二十年以上もそこにあるものもある。急な階段を登って二階に上がると、ごろんと置かれた直しかけの家具や、おびただしい工具類。そして、木屑にまみれた職人さんがいつも笑顔で迎えてくれるのだ。

 三島俊樹さん。昭和19年、夕張生まれ。父は炭坑の係員だった。高校は成績優秀者が行くもの、体力に自信もなく炭坑の肉体労働も無理、小さいころから物を作るのが好きだった小柄な少年は、中学を出たらどこかで働くものと決めていた。修学旅行で見た熊の木彫り職人になりたかった。卒業を控えて、職安の職員との面接で希望を告げると、「近くにそんな仕事はない」と言われた。

 卒業式の日、先生に呼ばれ、小樽のたんす工場の求人を紹介される。翌日に父と早朝の汽車で小樽へ。すぐに採用が決まり、約二週間後にはその工場の住み込みとなっていた
 

手作りのいろいろなかんな

さまざまなカンナ。そのほとんどが自作したものだ。

 工場の屋根裏部屋での共同生活。2年間は毎日が掃除、配達の雑用の日々だった。一切の口答えが許されない徒弟制度の世界。工場の裏には線路が通り、夜、汽車の窓から漏れる明かりを見るのが切なかった。これに乗れば帰れるのかと、14歳の少年は外に置かれた材木のすき間に隠れよく泣いた。

 

 見よう見まねで仕事を覚え、一人前の職人としてのデビューである「職人披露」の席を親方が用意してくれたのは約4年半経ってからだった。「これからは自分の作ったものに責任を持つのだな」と、意を新たにした。
 夕張に戻って独立しろという父親のすすめに、「まだ一人前じゃない」との思いが強かった。札幌の椅子張り職人の元に移り、修行を続けた。コイルのバネを何本もつないでクッションの高さを調整する。頼りになるのは自分の手の感覚だけだった。職人の奥深さを改めて知った。 そこに約4年、さらに別の家具製作所に約9年勤めた。箱物づくり、塗り、椅子の作りと張り、どんな仕事を持ち込まれてもこなせるようになっていた。

材料となる木の前の三島俊樹さん

 1980年に独立。会社や住宅の特注の家具製作、修理、内装、すべてを一人でこなしてきた。家具も既製品や規格品が多くなり、最近は古い家具の修理や塗り替えの仕事が増えているという。


 筆者も古い家具が好きだ。古道具屋で見つけた家具を、ずいぶんここに持ち込んだ。いくらガタがきているように見えても、ここに来ればきちんとよみがえるのを知っているから、どんなものでも安心して買うことができた。条件はただ一つ。無垢材であること。

 「無垢はね、どうにでもなるんですよ」と、三島さんは語る。表面を0.5ミリ削るだけで新品のように見せることもできるし、木の目を見ればそる方向も予想できる。欠損した部分を補う加工もしやすい、という。 

 一目見て、制作年代、各所に使われている木の材質、木組みの方法、などを丁寧に解説してくれる。なぜ痛んだか、どう直すのか、木訥(ぼくとつ)とした語り口に、的確な指摘には技術に裏打ちされた揺るぎない自信を感じる。


 三島さんの技術を受け継ぐ後継者はいない。「教えても、この仕事じゃ食っていけないからねえ」と語る。古くなったからと、捨てられる木製品を見るのは、職人として心が痛む。「うなるような技が見える家具もあったねえ」と、ぼそりと語る。 多くの家具を作って世に送り出し、古い家具を直し、生活の場に戻してきた。 私が直してもらった家具、どのくらいもちますかね、との質問に「なんぼでも」と言う。200年、300年?「いやあ、もっと、もっと」と、笑顔で答えた。

(2005年11月30日・吉村卓也)
 

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