白老、飛生(とびう)に集うアーティストたち
34年前、廃校になった小学校に彫刻家が移住して始まった多くのつながり。

「飛生アートコミュニティー」は、廃校となった旧飛生小学校を利用している。建物は1949年に開校し、1986に閉校になるまで、40年間使われた。建物は廃校当時のままだ。(Photo: Tadashi Okochi)
白老町に、飛生(とびう)という場所がある。今は「字竹浦」という地名になったが、「飛生」は町内会や川の名前に残る。人家も少ないところだが、かつてここには「飛生小学校」があった。今、廃校となった校舎を舞台に、年に一度芸術祭が開かれ、日本全国から訪れるアーティストで賑わう。「飛生芸術祭」という入場無料のアートイベントと、「トビウアートキャンプ」という一泊二日の有料イベントが行われている。
なぜこの地にアートが?という疑問に答えるために、34年前、1986年に遡ってみよう。
この年、ここにあった飛生小学校が廃校になった。この校舎の活用方法を考えていた白老町と、札幌在住の彫刻家、國松明日香さんがひょんなことからつながり、國松さんはこの小学校の使われなくなった教員住宅に、一家で2年間住み、小学校校舎をアトリエとして、創作活動を行ったのだ。
アーティストをある土地に招聘し、そこに住んで創作活動を行ってもらい、その地域によい刺激と変化を与えようとする「アーティスト・イン・レジデンス」という考えは今でこそ一般的になってきたが、当時はそんな言葉もない時代。だがやったことは、まさにそのコンセプトに添ったものだった。
國松明日香さんに話を聞いた。
1986年、私が38歳の時でした。ちょうど、勤めていた短大の講師を辞めていて、これからは彫刻だけで食っていこうかという転機でしたね。
当時の教員仲間だった日本画家の伴百合野さんからの相談があり、ちょうど白老で侍の彫刻を作ってくれる人を探している、という話があったんです。伴さんにその話を持ってきた人は、白老町在住の国鉄職員で、道展会員の画家だった勝見渥さんでした。
なんでも、仙台出身で白老町在住の方が、白老にある仙台藩陣屋跡資料館に侍の彫刻を寄贈したいという話でした。私にその役目が回ってきた訳です。
その仕事をやっているときに、教育委員会の方から、今度廃校になる小学校があるから、みんなで何か活用できないか、という話を持ち掛けられました。
勝見渥さん、伴百合野さん、百合野さんの夫で造形作家の伴節夫さん、版画家の大野重夫さんと私、それに顧問として彫刻家の流政之さんが加わり、ここを拠点にして何かをやろうということになったんです。
ちょうど国鉄が民営化されるときで、勝見さんは国鉄職員だった訳ですが、もしJRに採用されなかったったら勝見さんを中心にやろうということになっていました。ところが、勝見さんはめでたくJRのデザイン室に採用となり、白老を離れ札幌に移ることになったのです。
私は、そのときはもう短大を辞めていて身軽だったので、「では私が」ということになったのですね。夫婦と子ども3人、一家で移住しました。住まいは、この小学校の教員住宅を格安で借り受けました。当時の町の教育委員会の教育次長がまちづくりに一生懸命な方で、積極的に応援してくれました。
私たちが移住する直前まで、飛生小学校は現役でしたから、校内はまだ生徒がいたころの雰囲気がそのまま残っていました。教室は3部屋と体育館しかない、小さな複式の小学校です。
実際に住んでみて、それはもうすばらしかったですね。私は小樽で生まれ、小学校5年のときに札幌に移りました。私にとっては、初めての田舎暮らしでした。自分の転機となった時期に、このような場を与えられたことが自分のターニングポイントになったと思います。
札幌にいたときは、いろいろ付き合いも多く、それに時間を取られることも多くありました。白老では、時間がたっぷり取れました。情報が少ない分、自分について、自然について、深く考え、感じることができました。家族単位での生活の時間が長くなり、関係が緊密になりました。

彫刻家の國松明日香さんは、1986年に白老町に一家で移住し、2年間暮らした。
当時は、大昭和製紙や旭化成という大きな企業が町にあり、企業城下町という雰囲気がありました。町の人達の我々に対する見方は、何かやってくれそうだ、というのと、よそ者が来た、という二つがあったと思います。それは確かに感じましたね。住んでみて、学校という建物が村落のコミュニティーの中心になっていたのだな、ということを強く感じました。都会にいるとそれを感じることはあまりありません。地域にとっては大切な建物だったんだと思います。
私が白老に移り住む3年くらい前、彫刻家の砂澤ビッキさんも、音威子府の廃校をアトリエにして創作活動を始めていました。白老とは違って、あちらの自然環境はより過酷で、ビッキさんの創作スタイルはひとりでもくもくと、という感じが強かったと思います。ビッキさんも後に飛生を訪ねてくれました。そして半日滞在し、スケッチを何枚か描きながら、とても良いところだなといっていたのが印象的でした。
当時、廃校利用のモデルとして、新聞やテレビにずいぶん取材され、見に来る人も多かったですね。学校という場が与えられたことで、そこに誰もが使える木工房を作ろうとか、音楽会を企画しよう、というアイデアが生まれました。札幌の生活の中では出てこない考えでした。実際に年2回、クラシックとジャズのコンサートをやっていました。
町の人も協力的で、1988年に父の国松登の作品を中心に、「国松登と飛生の画家や彫刻家展」という展覧会を、JCの人が中心になってやってくれました。
私たちは、事情があり2年で白老を離れましたが、その後、何人かのアーティストたちがこの場所を引き継いでくれ、その後、息子の希根太が東京の美大を出て戻ってきて、今もアトリエとして使っています。伴さんの息子さんも、私の後を引き継いでくれた田中照比古さんの娘さんもそれぞれ美大を出て参加したりし、文字通り第2世代が活動を再開しました。私たちがいた頃より、数段バージョンアップしています。
2005年には、「TOBIU 20周年展」、2007年にトンコリ奏者のOKIさんを呼んで、「TOBIU meets OKI」という音楽イベント、2009年に「飛生芸術祭」と「マジカルキャンプ」という野外フェスティバルを行いました。このころから、プロデューサーの木野哲也さんが関わるようになり、芸術祭は毎年恒例のものとなっていきました。
2011年には「飛生の森づくりプロジェクト」という、ここの森が子どもたちの遊べる場所になるようにする試みも加わりました。この頃から、もういろいろな人が関わりだして、ひとつの運動のようなものになっていきましたね。
私たちが飛生に住んでいたころ、長男の希根太はちょうど小学3年生。地元の小学校にスクールバスで通いました。後で希根太から聞いた話ですが、私を訪ねて飛生に来る大人たちが、ここに来ると子どもみたいに楽しそうにしているのを、小学生ながら興味深く感じ、印象深く見ていたそうです。
彼は今、飛生アートコミュニティーの代表となっていますが、芸術祭やアートキャンプが続いているのも、子どものころのそんな記憶があるからなのかもしれません。
何年か前から、世界的な芸術家の奈良美智さんも芸術祭に来てくれるようになりました。「ここのアートキャンプはどことも違う」と彼が言っていたのが印象的でした。多くの芸術祭は終ったら人が残らないけど、「ここには祭りの後でも制作者がいる。それが素晴らしい」、と言っていましたね。
今はここに集まってくれるいろいろな人たちが、それぞれの得意な分野で活用してくれている。調和が取れていい状態になっている、と思います。
2020年2月・記 吉村卓也